第164回  < 年金基金によるヘッジファンド投資の歴史 >

1999年から、年金基金の資産運用業務に携わらせていただく機会がありました。そのとき、筆者は、既にヘッジファンドを中心とするオルタナティブ投資資産分野への投資を行っていたこともあり、国内年金基金も国内外株式、国内外債券の4資産(国内と国外で1資産ずつという認識です)の買持ちのみのリバランス運用だけでは限界があると考えていました。一握りの先進的な年金基金では、当時から、プライベートエクイティファンドへの投資や、一部ヘッジファンドへ投資していましたが、大半の基金では、オルタナティブ投資への認識どころか、1996年から1998年にかけて資産配分規制(いわゆる5:3:3:2規制)を含む運用規制が撤廃される中、どのように運用を変えていくべきかで頭が一杯の状態だったと記憶しています。

年金基金の中で、最初にオルタナティブ投資の活用が広まり始めたのは、2003年頃でした。1990年代後半から続く日本の超低金利が、年金基金の債券収益を圧迫した上、運用規制撤廃後に配分の増えた株式資産が、2000年以降の厳しい運用環境によって目減りしたことから、多くの基金が運用の建直しを迫られました。当時、債券投資の代替としてヘッジファンド投資が考えられたのには、このように、運用規制撤廃後の安全資産(債券)からリスク資産への以降期と、株式投資の厳しい環境が重なったためと考えられます。

従って、債券投資の代替として、低リスクへの投資が指向される中、分散投資による低リスクを目的とするファンド・オブ・ファンズが脚光を浴びました。また、ヘッジファンド投資の導入時期は、不透明性の高い個別ファンドに投資することも難しく、コンサルタントの持っている情報も限られていました。そのため、ファンド・オブ・ファンズをゲートキーパーとして活用するという側面もありました。

2003年から2008年の間は、市場には多少の波はあったものの、概ね環境も良かったことから、年金基金のヘッジファンドに対する投資はファンド・オブ・ファンズを中心に順調に伸びていきました。しかし、サブプライム問題の具現化、リーマンブラザーズ破綻による金融危機、マードフ事件が起きた2008年から2009年前半にかけて多くの年金基金が初めてヘッジファンドからも大きな損失を蒙りました。それまで、標準偏差5%程度でリターン10%を目標とする安全資産の代替とする投資として考えられていましたが、この期待は裏切られた形になりました。更に、金融危機による流動性の枯渇から、多くのファンドがゲート条項を発動したため、月次、あるいは四半期毎の解約を期待していた投資家は、1年から2年間資産を塩漬けせざるを得ない状況に直面しました。1998年や2002年にも似たような状況は起きていたのですが、年金基金にはこの当時の経験がなかったことから、戦略の区別無く、ヘッジファンド投資を安全資産代替として考えることの無理を、このときになって初めて認識したといえます。

およそ10年間を経て、年金基金のヘッジファンド投資行動にも様々な変化が見られるようになりました。これまで、ファンド・オブ・ファンズ一辺倒だった投資対象が、2008年を契機に、徐々に個別ファンドを選定し、投資する方向に変わりました。その際、ビジネスとして採算がとれると判断して、ヘッジファンドのゲートキーパービジネスに参入してきた、一部のコンサルタントや投資顧問会社、あるいは信託銀行を基金が採用するようになりました。また、ヘッジファンド投資という括り方があまりにも広範であることを認識し、戦略毎に期待リターンとリスク量を分けて考えるようにもなりました。

現在、ヘッジファンド投資は、国内年金基金資産の約5%を占めるオルタナティブ投資の中の大半を占めています。安定収益を目指す投資家の試行錯誤は続きます。次のステップは、ヘッジファンドと一括りにされた概念を超え、投資家が、各ファンドの戦略、投資対象やリスクの源泉について理解をしたうえで、最適と思われるポートフォリオを構築することです。勿論、専門チームや知識の不足している基金では、引続き外部機関のサポートは必要となると思われますが、投資家全体の知識の底上げが出来ることで、ヘッジファンド投資がより効果を上げることになると考えています。私どもも、投資家の皆様の知識向上にあわせて進歩し、多少でも皆様のお役に立てるように様々な形で情報を発信していきたいと思います。