酉の市の月の記事が算数ネタなのと、11月の晴れの出現率、これは一体。。。
私の住む浅草の11月、といえば、商売人にとって外すことの出来ない酉の市のある月、です。商売の神様としてお酉様が君臨して、その手というか足の形からきている熊手を使って商売を掻っ込め、というのがある意味ざっとした由来ではあるのですが、細かいことは私の過去の記事を参照してもらうとして、とはいえ、今年の一の酉が珍しく朝から大雨だったんですよ。もう20年ほど毎年行っていまして、寒い印象はあれどほとんど雨に降られていけなかったことは無かったように記憶しています。
11月の雨って、イメージありますか?
元来、11月は東京にとって雨の少ない時期の始まりでもあり、以前の記事で取り扱ったように、三の酉の年には火事が増える、なんて言い伝えがまことしやかに信じられてしまうくらいに普通に乾燥する月、なのですが、今年の一の酉の朝の土砂降りは過去に無かったように思います。でも、このところ忘れっぽい私ですので、都合のいい記憶の書き換えかもしれない、自分が信じられへーん、ということで、そういう時は人類がこの15年くらいで急成長させた外部記憶媒体、インターネットで調べてみました。
過去30年の気象庁のデータをもとにした天気の平均を使っての議論になりますが、今年の一の酉にあたる 11月9日の東京都内の晴れの出現率は46.7%と、実は11月の過去30年平均を見ても一番低い出現率(同じ出現率なのは6日と20日)です。さらにいえば、この日の雨の出現率は40%と11月で一番高かったのです。30年で40%ということは、30年のうちの12年ですので、そりゃ、今年も降った訳です。それに対して、今年の二の酉にあたる21日は晴れが66.7%、雨は20%と、まぁ、悪くないです。ということで、二の酉である今度の日曜の早朝に行ってきました(え?この記事はその前の金曜に書いたのにどうして?)
よく、11月3日の文化の日は天気の特異点、とも言われて晴れがほとんど、と思われていますが、過去の統計で見ると晴れが80%、曇りが6.7%ですから、降らなかったのは過去30年で86.7%とかなり高いといえます。とはいえ、実際に、雨の出現率が一番低いのは 6.7%の23日ですので、その日は過去95%以上の出現率で雨に降られることがなかった、といえます。
認知バイアスの良し悪し – なぜ天気に?
ということで、感覚的に受け止めた情報、というのが実は統計的に見ると、微妙であれ、また程度の差はあれ、ズレがある、というのは、私たちの物事に対する認識、認知に記憶や思い入れ、その他の情報などが影響しているから、というのはよく知られた事実です。まだ天気の出現率に関する話なら外れたとしても雨に濡れる程度のダメージでいいのですが、これがダウンサイドリスクのひどい(?)投資への判断を誤ったことで多大なる損を被った、となるとざっくりいえば認知バイアスと呼ばれる、非合理的な判断にたどり着く心理現象として認知されることになります。
でも、これは過去の経験や知識、自分の中の思考パターンに依存する、という脳みその負担を軽くするメカニズムに依拠しているので、生物学的にはあながち悪い話ではないとも知られています。というのも、これがないと、全部一から調べて評価することになるので、過去に学んだ情報や知識を全く使わない、という非効率というか常に記憶喪失的なことになるのです。もし前回の記事を例に取るならば、中学受験の算数の問題を解くのに、ちょっと特別な公式を覚えると楽なのに、公式を覚えるのが面倒だけど公式の作り方は覚えたからなんとかなる!なんてやっていたら問題を解くのに時間がかかりすぎて数問を回答できずに落ちるリスクが上がる、という感じでしょうか。
これをこのブログに当てはめてみると、今回のケースならば気象データを探して評価してって書いているわけですが、こんなSNSでの釣り投稿のおかげで世間話レベルの枕に付き合わされている読者数が両手両足でお釣りが出るようなブログにとっていえば、そんな世間話レベルの枕を書くだけなのにちょっと(時間的な)コストのかかる作業も、実際には記事の全部において全力ですることになりますので、一つの記事を書くのにどれだけの時間を要することになることか。おかげで実はこの記事も金曜にアップするはずが書ききれずに、日曜に二の酉で来年は稼げますように、とお願いをした上で、翌週の月曜にこっそりアップしているのでタイムリープしたようになっています。なんてネタバレを書いてみたら、きっと、どうせお願いするならもっと人に読んでもらえるような記事が締切までに書けますように、ってお願いしなさい、と弊社に今月から参加してくれた新しいウェブサイトの編集担当に、そもそもなんでこんな企画がずっと続いているんですか?と怒られつつも、言い訳をさせていただくならば、結構私の記事って、正確性と情報量の多さだけがこのブログの命ですから、常に最新の情報を得るべく調べ物とかの積み上げで書いているのでその結果として、私以外が無駄だと思う程度の労力と時間とページ数を費やしているんですよ。
え?知識以上にただの思い入れだけで書いているんじゃないのって思ったあなた、正解!よくご存知で(笑)
理系なあなたに対するバイアスとは
さて、そんなバイアスですが、漫画の世界でもそうらしく、知っている人にとっては懐かしい、86年から92年までの連載作品「逮捕しちゃうぞ」で主人公の一人、今でいうところのバリバリのリケジョ、90年代当時はメカフェチ(!)な我が家のお隣の墨田区の婦警さん(ああ、きっと掲載審査でセクハラ認定される。。。)である美幸ちゃんは言いました。
「理系ってのは、トリセツなんて、使い方がわからなくなって初めて読むものよ」
一応、理系と言っても全く実験をしたことがない数学しか勉強していない私ですが、大学時代の数少ない友達からは、お前は文学部数学科だ、と言われるものの、通ったキャンパスで判断すると理系の端くれですので、この一言を読んだピチピチの大学生の時分には、今でいう「それな」と思いましたし、事実、(最近でこそ、自分のための買い物なんて、今この文章を書いているiPad Proを半年以上前に買った程度ですが)いわゆるおしゃれな電化製品とかスマホとか、トリセツなんて見ませんよね。大体ボタンが片手ほどもないので、押すか、長押しするか、2回連続で押すか、すれば大抵のことが起こりますからね。まさか、ボタンを「上上下下左右左右BA」なんて押して最強モードになる、なんて白物家電、見たことありますか?あったら欲しいですね。
でも、この間お墓参りしてご挨拶してきた母に、子供の時分、というともう40(ごほごほ)年も前の事ですが、「わからないボタンは押しちゃダメ。爆発するから」と散々脅されました。実際、我が家で何かが爆発したことはありませんし、当然、当時はコナミコマンドなんて存在もしませんし、コマンドを入力できるようなボタンがついていたオーディオ機器もテレビも炊飯器もありませんでした。機械の故障が起きたとしても今となっては、ソ○ータイマーだったんだ、と it’s a Sony が大好きだった我が家的には納得するのですが、まだ上も下も、右も左も、もちろん BもAもよくわからない、女の子に間違われるくらい可愛かった幼少期(ええ、しのぶちゃんですから、未だにどこに行っても。。。)、言われたらそのまま信じてしまうくらいの純真さはあったのですよ。
取扱説明書って、それでも読みますか?
なんかいつものように話が脱線してきた。
可愛かった自慢はまたそのうちするとして、じゃあ、取扱説明書を読んだら問題がなくなるのか、といえば、最近の取説ってすごいですよね。実際、いうほどスマートじゃない、日本のテレビとかビデオとか、もちろんエアコンとか乾燥機とか、取説のページ数は公募投信の交付目論見書より分厚いし、交付目論見書と請求目論見書のセットみたいに、基本の使い方に簡略版に、ついでにこんな使い方の提案、みたいにあれこれ分冊になっているし、金融商品でいうところの免責文言にあたる注意喚起が本来の使い方と同じかそれ以上に想定されてあれこれ書いてあるんです。
びっくりしました。やっぱり、猫を電子レンジで乾かす人が出てきたあたりからこうなったのでしょうか。でも、今時のアメリカには、取扱説明書は小学校5年生の子が読んでもわかるように書かねばならない、という法律があるそうです。多民族で事実上多言語国家ですので、誰が見ても(読むのではなく)わかるようにしないといけないのでしょうね。その意味では簡単な図だけで説明するか、QRコードでYouTubeに誘導して動画で説明するか、の方が直感的な説明が出来るのでしょう。ということは、ちょうど先週、個人のブログを書いたのですが、軽く1万字を超えた「あなたが将来受け取るために働き続けて払い続ける年金保険の初歩」の記事でしたので、アメリカだと法律違反な記事、と言われそうです。
ということで、ファンドの世界の取扱説明書について
ということで、公募投信の目論見書の話も出てきたことですので、ファンドの世界に無理やり皆さんを引き戻します(笑)
ファンドの世界も危険がいっぱいです。と言っても、ファンドに投資したからといって空からタライが落ちてきたりすることはありません(そういうのは、ファンドに投資したかどうかに関係ありません。たまたまそういう舞台に仕事で上がったどうか、程度です。)し、爆発することといえばパフォーマンス以外はそうそうないのですが、とはいえ、危険と書いてリスクと読むものはこの金融の世界にはあれこれ存在します。では、それはどこで注意喚起しているでしょう。
公募の世界で言えば
一般的な公募ファンドであれば目論見書、ですよね。というより、ファンドに投資するときに読めるものってファンドの販売用資料と目論見書、くらいしかなくて、投資家の皆さんに興味を引いてもらうための販売用資料におどろおどろしいリスクの話なんて普通はしません。イケメンそうな運用担当者の写真を載せたり、セクシーな(金融の世界でのこの翻訳は、魅力的な、って意味ですからね。本当に、今時は言葉遣いに気をつけないとすぐにセクハラって言われるからなぁ。。。)パフォーマンスになるだろうという想定取引を過去の市場でやったらどうなる、というバックテストの結果を載せてみたり、薔薇色の世界だけを見せたいものです(とはいえ、ちゃんと最後のページには免責文言をつけたり、手数料が誰に対してこれだけ払っています、とか書かれた、比較的小さいフォントの文章だけを見れば不都合な現実が見えてきます)。となると、法律に基づいて作成することが求められている目論見書のような、EDINETと呼ばれる国内で開示が求められている金融商品に関連した書類が届けられるサイトで供覧に付される書類ですと、フォントのサイズを変えて不都合なものから目を逸らさせることなく、しかも、法律が定めた開示項目に従って開示がなされることになっています。
とはいえ、16年も昔から結構な数の外国籍投資信託を設定しては届出と償還の手続きを繰り返してきた経験からすると、上場株式や公社債を最終投資先にした比較的流動性の高い投資商品ですら、2008年の世界的な信用危機の時においては、これらの高流動性資産ですら取引ができなかったにも関わらず、ファンドの契約に基づいて純資産価格の計算停止を行使できるはずなのに、ファンドの買い戻しを履行せよ、というムチャをいう商慣習を貫く方がファンドの運営と投資家の資産保全にとってよっぽどのリスクだったですし、言い換えると、この辺りの目論見書に通常書かれているような、市場の価格変動や流動性のような取引にまつわるリスク以上の、本当の意味での資産の毀損にまつわるリスクというのは、なかなか書いても「怖すぎるのでやめて」というのが公募の、いわばrest of us のための商品を作るというのは厳しい話だったなぁ、と今思い返すと感慨深いところです。いやぁ、離れてよかった(苦笑)
では、プロの投資家にとってのトリセツ、PPMの扉だけ開けると
さて、じゃあ、私募でしかも流動性がほぼない資産へ投資しようか、というファンドへの投資のトリセツ、一体どんな世界になっているでしょう。そもそも、目論見書なんて、法律に基づいて大っぴらにばら撒かれそうな書類のタイトルではありません。趣意書、だったり private placement memorandum (PPM) – 私募にかかる覚書、なんて言います。PPMのことを、よく私募目論見書、なんて言う方もいらっしゃいますけれど、言い方は悪いのですが、私募なのですから、目論見書について法令上の作成義務というのが実はない(金融商品取引法上の募集 = 公募に対しては目論見書の作成義務が規定されています。)ものですからこの翻訳、どうかな、という気がします。事実、ターゲット投資案件のような短期間で投資家数も少ないような時ですと、契約関係の基礎となるlimited partnership agreement – LPA: 有限責任組合契約をまず作って、それをベースにPPMを作る、なんて時間はそうそう取れないし、関係者はそれまでの案件への合意プロセスの中で内容は理解しているしリスクも把握しているから、PPMなんてつくらずにいこう、なんてこともよくある話です。とはいえ、そこそこ不特定の人たちにファンドを理解してもらって投資してもらう必要があるならば作った方がいいよ、と言われて作ったことなんかもあります。
で、パッと書きましたけど、このPPM という書類は LPAを基に作成します。ということはそのファンドの骨格となる、ファンドの設立関連や、投資参加の手続、出資履行やそれに遅延した場合の取り決め、ファンドの投資期間、回収期間、期間延長の取り決め、投資対象や報酬・費用の範囲、みんなが気になる投資からの収益の分配や成功報酬の計算方法、それに関連した、もしもの際の再計算の手続き、年次の決算・監査やその他の定期的な報告義務、清算時の分配ルール、その他投資家としての権利とその行使方法などなど、この辺りのLPAからの引用で大事なことがPPMに書かれているのはトリセツらしいのですが、その上で、LPAには絶対に書かれることのない、リスクなどの注意喚起や税法上の取り扱い、各国における募集関連の法律との関係性、LPAで普通は細かく触れない投資の戦略・哲学、投資プロセスや期中の管理方法、さらには運営チームの各人の履歴みたいなことまで記載が及びます。
DDQとPPM、似て非なるその生い立ち
ん?この後半のところってDDQであれこれ見たような感じですね。じゃあ、PPMとDDQとどこか違うのでしょう?
DDQ は一応、絶賛募集中のファンドの募集のために準備するものではあるものの、そんな売り出し中で駆け出しのファンドのこと、というよりも、運営チームやそのスタイル、過去の実績のような所に重きを置くことで、11月の晴れの出現率と同じような投資案件の成功への再現率とその想定される確率の根拠について説明しているのに対して、PPM はファンドそのものの募集のために、ファンドそのものに投資したらどうなるか、という説明をすることに特化しています。ですので、投資したいファンドが現実に形となってあるところでPPMを渡したら勧誘行為だという位置付けにする、と考える向きがあります。
閑話休題:募集とは、募集でないとは
他方で、まだコンセプトベースで、当然ファンドとしての設立登記もしていないような戦略に夢を持って語っているうちは、実際に売るための手続きをする書類も存在しないわけですので経済的な行動を促すことも出来ませんので、募集行為に当たりません。ということは、そういうコンセプトを話していることは、35年くらい前にどこかの足立区の西新井大師の裏手に住んでいる男子高校生が北千住のはずれの土手の上で寝転べって
「俺、卒業したら日本を飛び出して、ビッグになるんだ」
と言いながら、11月の雲ひとつない青空の下で荒川に石を投げ込むくらいの極めて抽象的な夢(と大リーグ級の肩を持った高校生というありえない設定)と変わらないわけです。(ということで、私がピチピチの高校生の時分に、そんなことは一言も言ってもいませんし、荒川の土手からランニングコースと野球場を飛び越して荒川に石を投げ込めるほどの肩も持っていませんでしたので、本当にそういう設定、ということですからね。いや、本当に。。。)ですので、今度弊社の人間をはじめとするファンド業界の誰かが真顔でファンドのコンセプトを語って、これ作ったらいい商品でしょ?投資しませんか?なんて言ったとしても、ああ、あの人が、あのブログに書いてあった、まだ高校卒業できない例の人なんだ、って目で見ないで、ちゃんとコンセプトに対して建設的なご意見をくださいね。
その意味で言えば、PPMは、その意味で言えばあなたの投資資金の受入の準備のできているファンドの運営のお約束をある意味しているものですので、LPAを作ったファンドの弁護士がドラフトをしますし、完成したら、ファンドで利用することを取締役会で承認しますし、ケイマンあたりだと現地当局にLPAと合わせて Private Fund Actに基づいて届出するくらい、結構法的に重要な扱いになっています。真面目にLPAとか日本人大好きなunit trustのtrust deedを読んだことのある人ならばわかると思うのですが、こういうファンドの基本的な契約に、何にどれだけ投資する、なんて投資ガイドラインのようなものを含めて運用の制限をきれいに書くことをしないものが多いのです。となると、投資行動や制限についてはPPMで潜在的投資家に対して開示した以上、LPA等と一体化して管理するべきもの、という認識になっているようです。他方、DDQはいいところ運用会社の広告審査などのレビューが入るだけで、これを募集する国の当局に提出する義務がある、なんて聞いたことがありません。と言って、眉唾なんですよ、なんていう気はありませんよ。DDQを書くのだってこのブログを書くのと同じかそれ以上の正確性と労力が掛かるのですから、頑張って最後まで読んであげてくださいね。特に弊社のDDQについては私が現在鋭意書いていますので、次に読むことがあったら是非によろしくお願いします(笑)
ということで、今回のまとめ(?)
ということで、気づいたら、また研修会で取り上げる予定のネタの試し切りをさせていただきましたが、まぁ、私の記事です。無駄な長文と脱線と話題のドリフトがこのブログの戦略ですので、こうやって話がどんどん変わっていく確率も、酉の市と算数に絡めたトピックと同じくらいこの投資小噺での出現数が高いのです。
お後がよろしいようで。