浅草の最近の多様性とと掛けてベトナムと解く。その心は。。。
私の住む浅草は伝統あふれる江戸の頃からの日本の風情をそのままに残した街、と一般にまた世界中にも知られています。東京最古の木造建築の門と言われ、東京大空襲すら逃れた二天門を始めとした浅草寺一帯の社寺を起点とし、その周辺に広がる昔ながらの趣の商店街、そこを行き交う人力車、なんて風景をみればそう思い込んでも当然のことでしょう。
浅草って純粋な日本の古き良きを残しただけの町?いやいや
実際のところ、浅草という街は常に新しいものを受け入れ、また復興させて出来上がってきた街でして、人力車が今のようにあちこちで見られるようになったのはこの10年程度、20年前には人力車保存会の人たちがその趣味として一台100万円程度すると言われる人力車を保有して、イベントに呼ばれれば車夫となって引いていた珍しい乗り物でした。また浅草の顔となる風雷神門、いわゆる雷門も昭和40年代に松下幸之助氏が寄進したことで復興した建物です。このような例は枚挙に暇がなく、そうやって浅草は今で言うスクラッチアンドビルドを繰り返して来ました。
そして、そこにいる人たちの多様性も広がりつつあり、日本の文化と伝統を体現する街、と言いつつも日本の伝統的な和食や明治時代からの流れをくんだ洋食だけでなく各国の西洋料理、イギリス人の経営するマイクロブリュワリーのパブ、古くから住む中国人や韓国人のルーツを持つ人たちの営むローカルフード、インドやネパールから来てお店を出した人、ブラジルの食文化を紹介するお店などなど、気がつけば国際色豊かな街になっていました。
その中で、最近街中で新しく出来たお店がありました。そこら中に増殖中の台湾のタピオカは言うに及ばず、ですよ。ベトナムのサンドイッチ、バインミーを出すカフェです。ベトナムは、1923年にフランスに占拠されて第二次世界大戦が終わるまでの間の統治されたことによるフランスの文化的影響が大きいようで、バインミーのような食事にすらその影響を垣間見ることが出来ます。
と、やっと本題(笑)というのも、先月の投稿をスキップするほどこの数カ月は忙殺されていたのですが、毎年恒例となっている10月のベトナム訪問だけは欠かさず行きました(だけど、自費と有給を使って、なのでプライベートな旅行なんですけどね。。。)のでそのお話でも。相変わらず長い枕ですみません。
本題の、毎年恒例ベトナム行って見て来ましたコーナー
さて、気づくと個人的に懇意にさせて頂いている現地の運用会社の年次投資家集会への参加も11回目となりました。数えている訳ではないのですが、彼らは5年に一度開催地をハノイに今回で3回目の訪問なので11回目、ということでずいぶん長い間この国を見てきたなぁ、感じております。そんな個人的な思い入れを含めて最近のベトナムについてご紹介したいと思います。
ハノイのこの5年間、何があったの?
まず驚いたのが空港からハノイの旧市街にある常宿までの交通の便が前回に比べて格段に良くなったこと。1時間くらい掛かっていたのが35分に縮まりました。これはいくつかの要因がありますが、一つは空港を含む都市間高速道路の整備が進んだことです。この背景は、やはり外資による工場団地の誘致に伴った輸送インフラの向上に資本投入が進み、整備が進んだことが大きいです。これにより、このところの中国での製造コストの上昇やこのところは落ち着きつつある米中の貿易摩擦の影響等を受けて、さらなる外資による工場拠点の誘致と進出が進むことが予想されますし、この数年のベトナムの対米ドルでの通貨の安定性もこれらの海外からの投資による外貨獲得に基づく外貨準備高の高位安定が推移していることにも影響しています。
もう一つは、昨年のホーチミンもそうでしたが道路を走る車が増えたことで往来の平均時速が上がっていることです。これは行かないと分かりづらいのですが、前回、前々回では空港から都心部までひらすら車の周りに大量の(2人乗り、3人乗りは当たり前の)バイクがいますので全般的に道路の流れは遅いのです。バイク単体だと速いですし日本では車の横をすり抜けるバイクのイメージが強いと思いますがバイクだらけの道路というのは、交差点に信号がなくとも阿吽の呼吸で相互に行き交うことの出来ることをベトナム人であっても往来が滞るのです。しかし、車を乗れる人が増えたことで、それでもバイクの所有も増えたものの、往来を自動車が牽引することで速くなり、また自動車専用レーンまで出来たことから移動が比較的速くなったと考らえれます。
とはいえ、既に家屋の立ち並ぶハノイの市街地の交通量も、経済の中心であるホーチミンと比べると政治の中心地としてはそこまでは、という過去の印象を払拭するように格段に増え、とはいえ道路の拡張などは出来ませんので朝から晩まで滞る状態が続くようでした。その影響で、鉄道がハノイ駅一つ前の駅で折り返してしまい、そのお陰で線路沿いに、線路側から入るカフェが増え、ちょっとした観光スポットになっていたそうです。でも、ちょうど私の帰国した週末から危ないから営業停止になったとか。。。
ベトナムのこのところの経済の推進力とは?
さて、そんな街中に目をやると、先程のカフェに限らず、外国人観光客があちこちにいることに気づきます。近年の世界的な国際旅行の増加の影響を大きく受けて、アジアの辺境の入り口とも言えるベトナムも年々来訪する旅行者も増えました。事実、ハノイの空港も来なかった5年の間に大型の拡張を行ったそうです。そのお陰で、ホスピタリティビジネス(ホテルや飲食、レジャー施設のソフトとハードの両面、それらを繋ぐ交通インフラを軸にした旅行関連ビジネス)は日本のこのところのインバウンドビジネスの急増と同様の大きな伸び率と、大きな雇用を生み出しているそうです。
また、日本のコスプレ衣装と同等の精密なクオリティを安価で手に入れられる、というマニアックな情報すら発信されるハノイに代表されるように従来の軽工業中心であったり、最近の世界的なコーヒーの消費量の増大から見直されているベトナム産のコーヒー豆や、同じくブームになっているチョコレート原材料であるカカオの生産、輸出といった農産国というイメージは、既にサムソンやインテルといった国際的企業や日本からも next China を視野に入れた生産拠点の分散としての向上進出が進んだことで工業製品の輸出が主軸に変わり、国の南方の油田採掘による原油の輸入国から輸出国への転換への過渡期に入ったことは、実はそんなに知られていない事実でもあるようです。
そして、ベトナムの今って?
そして、そのような安定した外貨獲得と外貨準備高の積み上げのお陰で、ベトナムドンの対米ドルレートはこの5年はほぼ変わらない水準で動き、海外の影響を最小限に受けつつ内需が安定的に拡大したおかげで、近年はインフレ率は2.5%程度、経済成長率も6%を維持していました。
そうなると、特に消費を支える中間層の消費者は購買能力と共に購買意欲は高まり内需が景気を底上げし、人々の暮らしにおいてスマホは2台持ちもしくはスマホとデータ通信の両方を使う、ということが山間部ですら当たり前になり、日本などにある金融インフラや旧来型のメディアがないことにより、今どきのネットインフラが一気に手のひらにやってきてしまいます。街なかでは grab や gojek で相乗りするバイクがひしめき合い、農村のお婆ちゃんはネットで自分の作物を都心部に売り込んで代金も銀行口座がなくとも回収し、都市部に集中して作られる高層住宅に暮らしながらソーシャルメディアで友達と繋がりながらネット動画でK-POP を見て、オンラインで買い物するけど町中のコンビニや週末には郊外のショッピングモールに行く、という先進国と変わらないライフスタイルになっているなんて、3人乗りで子供を学校に連れて行くバイクが走り、都市部のひび割れて埃っぽい道路の往来という、いかにも後進国という風景から想像しづらいところです。でも、そこにもネットをインフラとした社会問題解決のツールと海外からの過去数十年の中では巨額の投資資金の流入で生活の質の向上が(しかも急激に)図られている光景、と言われればどうでしょうか。
では、日本はベトナムに向けてどうなの?
さて、今回のカンファレンス、残念なことが一つだけありました。日本からの出席者がほぼいなかったのです。私と、先日インドでご一緒したシンガポールベースのベンチャー投資の方の二人だけ。東アジアからの参加というと、むしろお隣の韓国からの参加は、現地の投資運用会社との共同投資VCファンドが立ち上がったことだけによらず、従来からの海外投資への積極的であることなどの要因に押されてグッと増えたように感じました。それまででも実際には街中を歩けば韓国資本のビジネスビルが目につき、メディアはK-POPと韓流ドラマに席巻され、というわかりやすい進出が目につきますが日本企業はといえば。。。地方の工業団地に銀行、と言った見えづらいところ。見えるところといえば日本ブランドのコンビニくらいか?
実は現地の運用会社や出資を受けたいベンチャー企業などは、日本からの投資を受けることがステータス、とまで考えています。日本の投資資金が世界的な流れに影響されて大型化の傾向にあるのでベトナムのベンチャー企業への投資は比較的ネットかコンテンツかで、サイズも小さいからとミスマッチが起きていた、というのはもうずいぶん過去の話で、だいぶ面白くて東南アジアへの地理的メリットを生かした域内でのスケールの見えるビジネスも増えてきました。あとは先例なきリスクをいかに取れるか、にかかるのでしょう。
まとめ
ということで、懐かしい顔や新しい友達が増えた今回のベトナム旅行ですが、正直個人的にはそろそろもう少しビジネス機会を作りたいなぁ、と感じるエネルギー溢れる街でした。